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中原中也『汚れつちまつた悲しみに……』の授業

中原中也の『汚れつちまつた悲しみに……』の授業をする。

 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる

 汚れつちまつた悲しみは
 たとへば狐の革衣
 汚れつちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れつちまつた悲しみは
 なにのぞむなくねがふなく
 汚れつちまつた悲しみは
 倦怠(けだい)のうちに死を夢む

 汚れつちまつた悲しみは
 いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
 汚れつちまつた悲しみに
 なすところもなく日は暮れる・・・・・・
                             (『山羊の歌』)


詩は、遠い存在に向かってうたわれるものだと以前書いた。遠い存在とは神かもしれない。でも、神がこの世界に存在するか否かは不明である。存在すると思うものにとっては存在するのだろうし、そうでないと思うものにとっては存在しないのだろう。このことは、詩についても言える。本屋の詩のコーナーにおかれた詩集が詩であるかどうかは、きわめて個人的な問題である。いくら詩のコーナーにおかれた詩が詩だと言い張っても、それを詩だと思わない者にとっては詩ではない。

それと同じように、中原中也のこの詩を詩だと感ずるか否かは人によって異なるのだから、例えば、僕の授業を聞いて、少しでも感ずるところがあったとするならば、その人にとって、この詩は詩となったのである。要するに、個人的な問題である。

ということで、授業をしていく。「汚れつちまつた悲しみ」という俗語は「汚れてしまった悲しみ」という普通一般の言い方とは異なる。吐き捨てるようなプライベート言語である。それを「遠い存在」に向かい中也は吐き捨てる。そのような人間を超えた存在とも言える「遠い存在(神)」に向けて、吐き捨てることは可能なのか。詩人であれば、それはできない。しかし、中也は吐き捨てた。ここにあるのは何か? 

この詩の底を流れているのは「死」である。「死を夢む」の「死」である。それの対となる語句は「皮ごろも」である。これは、毛皮の極上のコートのこと。それは、若き日の中也の希望や理想。そう、夢であったろう。その夢は、現実の生活の中において汚れずたずたにされていく。そして、今、中也の心にあるのは「死を夢む」という夢である。死が夢となっている。この極端な対立する夢とは何であろう。

人は本質的に孤独である。その孤独を行き着く果てまで味わったのは、中也の心であった。山本周五郎が『樅の木は残った』という小説の中で、原田甲斐に語らせる場面を思い出す、「人は誰でも心の中に誰にも理解されない一枚の絵をもっているのではないか」という箇所である。中也は、その「誰にも理解されない絵」を周囲の人にではなくて、「遠い存在」に向けて訴える。人には理解不能だ。恋人とであれ、親友であれ。だから、「遠い存在(神)」に向けて訴える。しかし、神は存在しているのか、そうでないのかは中也自身にもわからない。しかし、あるかなしかわからぬ神に向けてうたう以外に方法はない。だから、うたう。この究極の孤独感。その孤独感に達する精神(心)は、まさしく中原中也であるからなのだろう。人間の孤独感の紛れもない真実。あまりにも人間という存在は孤独なのだ。しかし、周五郎が書いていたように、人の心は「誰にも理解されない一枚の絵」なのだ。

若き日の理想と夢。そして、現在の夢(それは死を夢見るということ)。この両極限的な光景がここに存する。

人が人とのつながりを求め、それに破れ、でもなお、つながりを求め、また破れる。そして、遠い存在(神)へつながろうとする。しかし、その神はいるのかいないのかは知るすべもない。しかし、信じる(でも、本当には信じられない)。そして、「汚れつしまつた」という最も身近な信頼できる人間に言うような言葉遣いで、神に吐き捨てる。もし、神がいるのならば、僕の友達になってくれ。そうすれば、僕はひとりではない。最も強い存在と友になるのだ。だが、それは、「汚れつちまつた悲しみ……」や「日も暮れる……」の「……」にあるように、繰り返される訴えや日々の中で、ただ繰り返されるだけなのだ。その試みがここに存在している。

生徒達は、神妙に聴いていた。どう君たちは思ったのだろうか? もし、僕のつたない説明の中に、ほんの少しでも「詩」を感じたとするならば、この中也の詩は君たちの「詩」となったのだ。君の友としての詩に。
by yukisophy | 2012-10-11 15:08 | Comments(0)